2020/4/6
私が初めてテッド・ルヅスキー氏に会ったのはシカゴのパナソニック事務所でした。彼との最初で最後の会見で、今でもそのときのことを鮮明に覚えています。今やっている技術というのは、先人がかなり前に発明し、その後、たくさんの人々を経て、製品として世に出ます。テッドが開発したテレビ用PLLシンセサイザの試作機もその原理は1925年ごろの発明で、1970年代のCMOS半導体の実用化まで長い長い年月を必要としました。
1974年当時、松下幸之助はモトローラ社のテレビ部門であるクエーザー社を買収しましたが、業績が振るわず、起死回生のヒット商品を探していました。クエーザー社の技術部門にいたのがテッドでした。彼は松下電器のテレビ関係者が訪米するたびに試作機のデモをしました。ただ、誰も、ものにはならないだろうと敬遠されていました。その理由は全ての操作がハードウエアで、商品化には難しいものと評価されたからです。
あるとき、たまたま、その試作機を幸之助にデモする機会がありました。日夜、ヒット商品を考えていた幸之助には天啓に映ったと思います。幸之助にはすばらしい原石でも、社員にはやっかいなものでしかありません。彼はすぐさま、フィリップスとの合弁で作った半導体事業部に連絡をとります。「すぐ、技術者を派遣しろ」と。そのころ、パスポートをとるには時間がかかりました。それでたまたま、パスポートを持っていた河崎達夫氏(当時は課長、その後、松下電子工業を副社長で退任)に白羽の矢が立ちました。
初めて創業社長に会った河崎氏にとって、幸之助は不思議な人でした。社員に向かって、わざわざ「これをLSIにしてほしい」と頭を下げたのです。大卒社員に国民学校出の社長が頼みごとをする。
その光景が目に映るようです。早々、黒板仕立ての用紙の束に箇条書きで設計の基本構想を書き出しました。そして、その当時は先端技術のマイコンとPLL ICの二つにわけてチップを開発しました。当時としては珍しい、赤外線リモコンで制御できる画期的なPLLシンセサイザチューナ内蔵のテレビです。これは大ヒットしました。
私が松下電子工業へ入社したのは、ちょうどその頃で、今はなき三洋電機のボルテージシンセサイザチューナを内蔵したテレビのソフト開発が仕事でした。その後、PLLを担当し、最後はゼニス社の製品を開発しました。そして、1983年に松下電子工業を退職して、夢の国・アメリカに移りました。移った後も松下電子工業のチップを使い続けたのは言うまでもありません。
技術というものは名もなき人々がその時々に努力を重ね、最後に一つの製品として世に出ます。そして、現在では単なる一機能として存在し続けます。当時としては珍しかったPLLは、今ではいたるところで周波数逓倍回路として使われています。現在では光が10cm進むぐらいの時間まで刻むことができます。