2020/3/23
私が技術系の高専に入ったのは15歳の時です。その当時は私立は滑り止めで普通科高校を受けるのが一般的でした。それを見越してか?高専は普通高校の前に試験がありました。
担任の先生が「機械よりも電気工学科のほうが競争率が高いなぁ」という一言で電気工学科を選びました。特に電気が好きだから、選んだわけではありません。
競争率が高いので、たぶん、落ちるのではと思っていましたが、受かりました。
そういった理由で技術者の道に進みましたが、あとで考えるとそちらのほうがよかったのかな?と思ったものです。若いときに工学を学び、ソフトウエアなどの実技も習得する。工技両道とでもいった道を進むことになりました。
入学後は、その学校のレベルの高さに追いつくのが大変でした。特に数学は幾何と代数の2種類に分かれて、最初から高等数学を学びます。微分、積分、級数、テイラー展開法、留数等、電気で利用するものはほとんど数学から学びます。本当は、微分も積分もガリレオやニュートンが見つけたんだと理解したのは物理を習ってからでした。物理も力学から始まり、電磁気学、熱力学、量子力学など定性的理解を十分する間もなく叩き込まれます。
入学して間もない頃、物理読書会というゼミに近いものに入りました。その先生は量子力学が専門です。アインシュタインが最後まで嫌いだった学問です。原子と電子のミクロの話です。原子をとりまく電子には状態というものがあり、そのレベルが高いところから低いところに移るときに特定の波長の光が放出されます。それを表現したのがシュレディンガーの公式だったような。
18歳の頃には、その当時で最先端の大型コンピュータを習いました。その頃の言語はフォートランでした。カード穿孔機で1文ずつ穴をあけて、リーダを使って大型コンピュータにソフトウエアを入力させます。その先生はどういう理由か?東大の物理の先生が行ったニッケル電子のエネルギー計算ソフトウエアを持っていました。それはアルゴルという言語で書かれていて、残念ながらFACOM(富士通製)では動作しません。それで、フォートランで計算できないか?ということになりました。
私は友人と二人、夏休みに徹夜をしながら、大型コンピュータを回し続けました。まるで、ロケットボーイズの映画に出てくるような話です。その計算はハートレーフォック近似式を使いました。計算を繰り返すことで誤差を最小にします。何時間も回さないとステートごとのエネルギーが計算できません。何度も発散してはがっかりしたのを覚えています。そして、最後に収束しました。その値とスレータ・フランク先生(米国の物理学者)が書いた本に出てくる値を比較し、ほぼ間違いがないことを確認しました。私はその後、ニッケルから塩素に拡大して計算し、同様な結果をえることができました。
今思い返すと、当時は深く理解もせずに計算をしていたと思います。ただ、習った物理の公式と実際の世界が繋がっているということは、はっきり体感しました。しかも18歳という若さで最先端の機械とソフトウエアという概念を知ったのは大きな収穫でした。後日談ですが、学校のコンピュータ管理者から、使いすぎだと先生にクレームが入り、私たちの先生が謝ったという話を後で聞きました。
卒業間際には、1年留年した学生からインテルが開発したマイコンの説明とその実習を受けました。先生も習っていないので、学生が先生です。1970年代、バイポーラトランジスタからICになり、 CMOSへと大規模LSIへの道が始まったばかり。誰も教えてくれる先生や先輩はいません。先生はみな真空管時代の人たちでした。
21歳の時、大手電気メーカで大型コンピュータを使ってアセンブラ(機械語)でソフトウエア開発をしましたが、まったく違和感がありませんでした。私と同期入社の方は大学のマスター卒でしたが、大変な苦労をされていました。学問と実際の応用は常にセットでないと本当の意味でマスターしたことにはなりません。それはアカデミアではないという先生もいるかも知れません。アインシュタインは工学者になりたいといった息子を許しませんでした。ただ、両方があってこそ、この世界を解き明かすことができると思います。
26歳の時、夢の国・アメリカで技術者として仕事を始めました。私が知り合った技術者はみんな工学系の大学卒です。EEの技術者で回路を設計してテクニシャンに基板づくりを依頼します。日本のように技術者が全部組み立てることはしません。私の会社はイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校卒出身者が多く、のんびりした雰囲気で、人格者が多かったように思います。西部劇に出てくる男のような人たちがいっぱいでした。私の直属の上司はカルテック(カリフォルニア工科大学)卒で、優しい人でした。最初の会社を5年務めた後、憧れのシリコンバレーに移りました。
当時を振り返ると、会社を5年単位で変わっていました。アメリカでは2年で変わっても違和感はありません。ただ、後年、会社を設立してから思ったのは、退職するというのはそれだけで不義理であるということです。
この社会の進歩に貢献したいと思い始めたのはずっと、後になってからだったように思います。